こんにちは、じゅんじゅんさん
思うことをつれづれなるままに書きます。質問とか返答ではなく、自問自答的になるかも。
1.「わからないところを飛ばす」って、「わからないことを気にしなくなる(気にならなくなる)」こと。そしてこれは、母語でもやってること。
そのとおりだと思うんですよね。母語の読み方?(習得の仕方?)と同じこと。
で。僕がどう説明したらいいかな?と悩んでるのは
A.ああ、確かにそうだよね!って納得してもえそうな、簡単な説明
B.「わからないことが(自然に)気にならなくなる」方法
Aは、古文とか難解な文章とかを読んでる時のことを思い出してもらうといいかな?なんとなくわかるけど知らない言葉がバンバン出てくる。でも辞書引きたいとは思わないですもんね。例えば
<奥の細道>
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。
<ヘーゲル『精神現象学』の一節>
知覚を超えて高まったとき、意識は、現象という媒語[中間]によって、超感覚的なものと推理的に結ばれて、現われる。この媒語を通じて意識はその背景を見るのである。
<夏目漱石『吾輩は猫である』の一節>
「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画がかける訳のものではない。昔し以太利の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」
「へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実にその通りだ」
と主人は無暗に感心している。金縁の裏には嘲けるような笑が見えた。
その翌日吾輩は例のごとく椽側に出て心持善く昼寝をしていたら、主人が例になく書斎から出て来て吾輩の後ろで何かしきりにやっている。ふと眼が覚めて何をしているかと一分ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア・デル・サルトを極め込んでいる
こんなのを読んでもらって、「意味の説明できない単語を挙げてもらう」と、日本語を読む時は「いかに読み飛ばしているか」「なんとなく理解してるか」が体感できますかね?
Bは、やっぱり、「辞書を引きたいと思わないくらい簡単な本」あるいは「辞書を引きたいと思わないくらい面白い本・興味のある分野の本」を読め。ってことですかね。。私は、夏目漱石の『吾輩は猫である』は大好きなので、なんとなく「ああ、辞書を引かないで読むってこういうことなのね」を腑に落ちるんですけどね。
それが他の人に通じる説明かどうかは、よくわかりませんが。
C.じゅんじゅんさんのコメントしていた「読み飛ばした言葉は、どこへ行く」ですが、こっちについては、「多読をやりはじめる前の質問」で、僕の知り合いの「多読をはじめた人」からは、あまり出てこないかな。なので、すみませんが、コメントはパスで(笑)。すみません。
<追伸>
先日本屋で、『ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密 (岩波科学ライブラリー)』という本を立ち読みしました。子供の言葉の習得過程で起こる一般的な誤りから、こどもはどんなふうにして言葉を習得していくのか?を書いた本のようです。読むと、多読という方法の理解に繋がりそうだなと。買わなかったんですけどね(笑)。今度読んでみたいです。
じゅんじゅんさんと投稿やり取りしてて、頭が整理されてきました。ありがとうございます。
リフレッシュして帰国した酒井先生のコメントも楽しみにしています。
バナナ
じゅんじゅん さんが書きました:バナナさん、再びです。
どう書いていいか悩ましかったのは、バナナさんは「飛ばし読みのうまい説明」と言ってますが、
みんなで話してたのは「わからないところを飛ばす、ってどういうこと?」というものでした。
なので、これって同じ話しのような、いやいや似て非なるなのかも…??と悩ましかったです。
そんな感じでよろしくお願いします。トピずれしてたらごめんなさい。
わたしは「わからないところを飛ばす」って、
最後は「わからないことを気にしなくなる(気にならなくなる)」ことだと思うんです。
そしてこれは、母語でもやってることだと思います。
だから「わからないことを気にしなくなる(気にならなくなる)」ことって、
実は母語のときと同じ体験をすることなのかもと思ってます。
そんななかで、「じゃあ、飛ばしたことばはどこへ行く?」ってことなんですけど。
『飛ばしてても、森(物語)を身体いっぱい感じているから、みんなで話しているとき、
あそこにあれがあったよねーって言われた途端、既に知ってたように気づくこともあるし、
逆にまったく初めて知ったと思うこともあるじゃない?この時点で、分かるとこだけ繋げてる
わけじゃないって思う』
(↑↑ なんとこれが、「あの説明」にあたる部分…だと思います。ほぼ原文ママです。 ↑↑)
その森(物語)全体を感じているときは、先が気になったり、楽しめるのだと思います。
そして分からないところを飛ばしていても、それが消えたり無くなるものではなく、
森を感じているうちに木々や草花といったところも、知らず知らず感じているんじゃないかな。
という話しです。。
うーん、整理したつもりですが分かりにくいですね…
あとは酒井先生の補足説明待ってください!

それでは、バナナさん、酒井先生、ご覧のみなさま、よい連休を!
じゅんじゅん
