MIKI さんが書きました:大人にとって、音から入るやり方が早いかどうかは・・・どうなんでしょうね?
おまえはどっちなんだ!と叱られそうですが。。。
僕は早いとは思えない。。。むしろ時間がかかるような気が。
実際僕も、「文字より」のひとより歩みが遅いと感じています。。。
MIKI さんが書きました:うーん・・・やっぱり、音とイメージを文字につなげるんであって、置き換えるではない気が・・・
「置き換える」は、音とイメージと文字がつながった状態になってようやくできることでは・・・?
だって、先に文字を知ってなければ、置き換えることはできませんよね?>katobushiさん
あわあわあわ。。。。すいませんMIKIさん。
僕はまるで議論の進め方というものを心得ていないのです。
厳密な議論をできるほど、厳密な思考ではないのです。。。
だから僕の表現は気にしないで。。。
ややこしいことになってしまってすいません、汗。
これならどうですか?(僕が言いたかったことはMIKIさんと違ってる??同じ??)
音とイメージが文字と繋がろうとしている時、「ことば」の主体がどちら側に傾いているかだと思うんです。
もしかしたら常に子供に接しているMIKIさんと、大人英語しか知らない僕とで、「文字」の意味あいが違ってるかもしれません。
子供にとっては文字もイメージだと仰っていましたよね!?
でも大人英語の文字は、観念的な「意味」「言葉」そのものではないかと。
音とイメージを文字につなげられるのは、文字そのものがまだ「意味をもたない」「言葉ではない」からであって、
大人英語の文字は、すでに「意味をもっている」「(歪んではいても)言葉そのもの」、
だから安易に文字を登場させてしまうと、たちまち文字が勝ってしまう??
その状態で「音」を入れるという話になると、「文字(大人英語にとっての言葉そのもの)」から「音」にアプローチせざるを得ない。
「この文字はこういう風に聞こえる」というアプローチになってしまう。
子供は「この音はこういう風に書く」なのに(←この認識自体、あってるのかかなり怪しい)。
我ながら隙だらけの論理です(笑)
そんでもって、「子供のやり方が自然」という前提が居心地わるくなってきました(汗)
大人には大人の「自然さ」が当然あるはずですよね。。。
でもまって、そうか!
tadokistが意味の分からない単語に出会ったときに、「日本語を介さずに言葉をつかむチャンス」ととらえるけど、
あれは、そういう「文字」はまだ「言葉」になっていないから、音がなくても文字よりのtadokuで自然な言葉を獲得できるんだ!
それが大人の「自然さ」???
いよいよ意味不明になってきました。というか主張をひっくり返してしまいました(汗)
ほんとにすいません。どなたかお助けを。。。
MIKI さんが書きました:たとえ文字から出発しても、楽しみながら自分のペースでゆるゆると続けていれば、
そして、そうなりたいと思い続けていれば、だんだん音寄りになれるよ、ということで・・・。
僕もそう思いました!!沢山読んだtadokistのみなさんは、結局音よりになってませんか!?
see you !